「これでいいのだ」という言葉の破壊力
こんにちは、スピリチュアルコーチのKOMAKIです。
「これでいいのだ」という言葉を聞いたことがありますか?
これ自体は知っている人も多いと思いますが、実際にアニメを見た人は、いい年齢の人たちではないでしょうか?
私もアニメを真剣に見ていたわけではないのですが、たまに見てはくだらないと思っていました。
どちらかというと、いいかげんなパパの行動に呆れているところもありました。
そして、ドタバタの最後に
「これでいいのだ」
ずいぶんお気楽な世界だと思っていました。
しかし、私がこの言葉を改めて考えるきっかけがありました。
それは、赤塚不二夫先生が亡くなったときです。
赤塚不二夫先生が亡くなったのは、もう10年前ですが、
その葬儀でタモリさんが弔辞を読みました。
その時初めて知ったのですが、タモリさんは赤塚先生に拾ってもらい、お世話になったそうです。
そのエピソードなどが語られていたのですが、その弔辞にはちょっとした仕掛けがありました。
実は、紙を見ながら弔辞を読み上げていたタモリさんの紙は白紙だったのです。
彼は、まるで紙を見ながら読んでいるかのようでしたが、それは一回も淀むことなく完璧に語られたものでした。
その弔辞の中にこんな文があります。
『あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。』
当時、この文章を見て衝撃を受けました。
この言葉には、こんな意味があったのかと。
でも、本当の意味で、私がこの言葉を理解するにまだ至っていませんでした。
理解できたのは、ここ数年だと思います。
漫画におけるパパのセリフは、たとえどんな結末であろうと同じこの言葉で閉じられます。
それは、人生において、
それがどんなことであっても、どんな内容であっても、幸でも不幸でも、起こっていることすべてに対して肯定する言葉であるということです。
過去に起こった出来事は、それが歴史上のことであれ、内容を解釈するのはその後の未来に行われること。
出来事が起こった瞬間には、何の解釈もされるわけではありません。
例えば、交通事故という出来事があったとして、そのあとすぐは最悪だったと思うことでも、その事故のおかげで、隠れていた病気を発見したとか、目的地に着いていたらもっと大変なことに巻き込まれていたとか、その後の振り返った未来の地点によって、交通事故という出来事の解釈が変わることがあります。
過去の出来事を解釈するのは、未来であり、その解釈は、どの段階で解釈するかによって、答えが変わります。
つまり、起こった出来事そのものは、すべて「いい(yes)」わけです。
自分が今まで生きた人生全てを「いい(yes)」と判断することです。
だって、良くなかったらきっと生きていませんよ。この世に。
たとえ、これだどんな困難だろうが、大変なことだろうが、うれしいことだろうが、楽しいことだろうが、関係なく「これでいい」わけです。
そう考えたとき、この言葉の破壊力と奥深さに感動しました。
自分の今までの人生に「いい(yes)」と言えない人は、きっと頑張り屋さんです。肩に力が入っていて、自分で人生を切り開いてきた、人だと思います。
でも、力が入っていると、流れないんですよ。
自分の行動に対して、「いい(yes)」と言えたら、誰がどんな評価をしようと関係ありません。
あなたは十分「いい(yes)」んです。
これでいいのです。
今日も読んでいただきありがとうございました。
あなたの人生を応援しています。