自己肯定感について①
こんにちは。スピリチュアルコーチのKOMAKIです。
最近、よく考えるのが、
「自己肯定感」
ということ。
これは、いろいろな言葉の解釈があって、難しい。
私は、「どんな自分でも認められるということ」
だと思っている。
これは、ある人から聞いたのだが、
BE:存在
DO:行動
HAVE:所有
の掛け算だということ。
私たちは、自分良く見せるために、DOやHAVEに目が行く。
どれだけのことをしたか。
何ができたか。
何をしてきたか。
就職面接でも、何ができるかとか何をしてきたかとか経験や実績、結果を聞かれる。
そして、
何をもっているか。
学歴は?
年収は?
職業は?
貯金は?
恋人は?
家族は?
子供は?
家は?
服やバック、装飾品は・・・?
何をどれだけもっているかがまるで自分の価値のように感じることがある。
でも、そんなものは、時の運もある。
生まれてきた時からの環境もある。
生まれてきた国が違えば、全く状況は変わる。
価値観も変わる。
どんなに、いろいろなことをやって、どんなものをもっていても、自分で自分を認めてあげられなければ、そんなものは砂の城を一緒だ。
BE×DO×HAVE
これが仮に、
0.5×6×7=21
ある人は
5×6×7=210
同じような経験をしていて、同じようなスペックをもっていても、
自分の存在を肯定している人としていない人では、こうも『自己肯定値』がが変わってしまう。
自分を全く認められなくて、『0』とかだと、けっきょく『0』だ。
どんなにいいことをしようが、努力してもてるものを増やそうが全く満たされないということだ。
満たされないということは、幸せも感じないし、
これでいいとも思えないし、
いつまでも、青い鳥を探し続けることになる。
で、
このBEを上げていくことは、とても難しい、
なぜなら、私たちは何かをすることで褒められたり、何かを得ることで満たされたりという経験はたくさんしているが、何もしなくても認められた経験が少ないからだ。
しいていうなら、赤ちゃんの時くらいだろうか?
それも、人によっては必ずしもそうだったとは言い切れない。
赤ちゃんに、
「自分のことはじぶんでしろ」
とか
「自分の食べる分くらい稼いで来い」
という人はあまりいないだろう。
でも、だんだん大きくなるにつれて、
できることが当たり前になり、それを認められなくなってくる。
でも、よく考えたら、それぞれこれを見ている人が何歳かわからないが、少なくともスマホやパソコンを自分で操作し、文字を見て内容を理解する(私の話が分かりやすいかどうかはこの際突っ込まないでほしい。)ことができるくらいまでのねんれいではあるということだ。
そう考えると、その歳まで生きてきたことは実はすごいことだ。
何かをしてきたことではなくて、ただ「生きてこれたこと」はすごいし奇跡だ。
不慮の事故や災害で亡くなる人もいる。
病を患い亡くなる人もいる。
死の誘惑に誘われた人もいる。
そういうことを回避してここまで生きてこれたことはとても素晴らしいことだと思う。
そうやって、少しずつ自分そのものの価値を認めていけたらいいと思うのだ。
今日は、自己肯定感についての定義の話。
明日は、具体的に自己肯定値を上げていくことについて考えてみよう。
しばらく自己肯定感縛りで行ってみようか?
今日もよんでいただきありがとうございました。
あなたの人生がを応援しています。